浮かんだり沈んだり遊んだり籠もったり

Elles se rendent pas compte

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最近、というか11月に入ってからは三叉神経痛の発作と戦う日々。戦うといっても完全に負け試合。
一回の持続時間は短いけれど、頬の内側を火であぶられるような激痛が頻繁に起きると、なんかもう世を呪うというかやり場のない怒りに襲われる感じで、この一か月、脳内であの人この人いろいろな人を山中に埋めた。命乞いさせた後に重機で生き埋めにするスタイル。
過去のことは水に流す、という言葉があるけれど、それは主にやった側の話で嫌なことをされた側は水に流すどころか事あるごとに思い出して脳内で重機で地中に埋めたりする。私も誰かに嫌な思いをさせて、誰かの脳内で埋められているかもしれない。それはもう自分が悪いから仕方がない。でもできれば生き埋めはやめてほしい気持ち。

私にしては、という前置きつきで平日はお弁当作りを頑張っている。前日にいろいろ下拵えしたり、彩を考えてみたり、いろいろと面倒なことが多い。それでも真面目に取り組んでいるのには少し訳がある。

私はお弁当が苦手だ。偏食で変なこだわりが強いので小箱に詰められて味や匂いの移ったおかずやごはんが食べにくい。そこまでして何かを食べなくてもいいと思ってしまう。

でも、ある日、家族が、お昼ご飯を食べるのが楽しみだとか、お昼に美味しいものを食べると幸せだとか、そう思っていることを知って、恥ずかしながら今更に知って、自分との価値観の違いに驚くとともに、なんて可愛い人たちなんだろうと感動してしまい、じゃあ私の空いた時間をこの人たちの幸せのために使ってみようかと思った次第。だから自分なりに手間暇かけてお弁当を作っているけれど、そこに愛情がつまっているかと聞かれるとちょっと困ってしまう。愛というよりも家族のためになにかをしているという自己満足だから。

お弁当作りの最中にいない人は、お弁当にいろいろな思いを押し付けがちで、その豪華さに愛情を見たり、質素さに怠惰を見たり、好き放題する。娘の幼稚園の園長は、園児のお弁当を見て回って冷凍食品が多かったり簡素なものだと親を注意してきた。当時は子どもを人質に取られているようなものだったので何も言えなかったけれど、まあ最低最悪な人種だった。小学校の先生は「お弁当作れないときはコンビニ弁当でいいです。でも子どもが人目を気にするのでお弁当箱に詰め替えてください。買ってきて詰め替えるのも愛情です。」と話していて、その場にいたすべての保護者の心を癒してくれた。

お弁当はお弁当でしかなく、それは生活の中のごく一部の切り取りでしかない。私はたまたま今はそこを頑張っているけれどいつまで続くかわからない。今でも時々めんどうで作らない日もある。そんなもんです。明日のことはわからない。とりあえず何がか言いたいのかというと、作れる人もいれば作れない人もいる。でもそこで他人が愛情を計るべきではないし、保護者が責められるものでもないと。疲れた時はお金わたそ!無理な学校はパンとバナナでいいよ!長いお勤めになるから無理せず気楽にやっていこ!大丈夫!園長はもう山中に埋めといたから。

なんて書きつつも、「美味しかったよ」と言われて空のお弁当箱を返されるとき、Twitterで声をかけていただくときはやっぱりすごく嬉しくて、にんまりしちゃうんだけども。