浮かんだり沈んだり遊んだり籠もったり

鼬啼いて離宮に暮るる秋の雨

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ここにきて東京が寒い。

晩秋を思わせる冷たい空気に身体が冷える。靴下を脱いだ瞬間足が攣り、風呂上りには寒気がし、うたた寝しようものなら寝違える。中年の身体の冷えに対する反応速度、もはや卓球日本代表選手クラスのクイックリターン。過疎の村の役場のすぐやる課を思わせるコール&レスポンス。ちょっと落ち着いて。

長年生きていると経験からなんだかんだ言って栗の簡単な剥き方はないし、こすらず落ちることもないと知っている。にもかかわらず定期的に騙される。栗は包丁で剥け!汚れはこすれ!急がば回れ!という先人の教えを無視して疑うことを知らないピュアネスを発揮してしまう。そう私たちは不都合な事実から目を背け、いつだって楽しようとしてしまう。楽はいい。もう恋よりいい。夢や希望がなくても楽だと生きていける。景色のいい遠回りよりも、それが最短距離であったら血の池地獄の横でも通る。

というわけで、というわけでもないけれど、私の屍をスキップで越えてもらうべく、あまりこすらず綺麗になる洗剤をご紹介。全品アマゾンで購入可能。

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シッコロファンの掃除にお悩みの方、マドラーやブラシで一枚一枚羽根をこする方(私)、大変すぎて世の中への呪詛を呟く方(私)に朗報。Amazonで300円くらいのこの洗剤でつけ置き1時間で茶色い油汚れが綺麗に落ちる。今まで試したどの洗剤よりも強力。

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鍋底やビルトインコンロのこげも塗ってラップして数十分置けば擦らず軽く拭くだけで取れる。こする労力はさておきステンレスに傷をつけずにこげが落ちるのが良い。コンロから外せるバーナーキャップは日々食洗機で洗うと楽。

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入浴が趣味、なので浴室は基本毎日丁寧に掃除している。にもかかわらず濃い色の壁なのでうっすらとライムスケール?ライムスケール未満の水滴の跡?がついてしまう。家族からは見えないらしいけれど視力2.0の私にとってはまあまあ気になる存在。これが結構厄介で何をどうしても取れない。諦めかけていた時に友人に教えてもらったのがこの洗剤。壁にスプレーしてスポンジで塗り広げてしばらく放置したのちに洗い流すと完全ではないもののかなり綺麗に。ただその強力さから絶対に身体に悪いと思うのでマスクして使う方が良いし、小さいお子さんやペットがいる家庭では使わない方がいいかも。

そして人生は続く

f:id:dorie101512:20211221183730j:image年末ということで事あるごとに来年の抱負などを聞かれるものの、猫だったらとうに化け猫になっているお年頃、正直言ってもう自分に善処を望んでも望み損という境地なので、気分は無。今年の反省なし、来年の目標なし。強いて言うならば、今年は歯医者にあまり行かなかったので、来年は行こう、くらい。どうでもよすぎて人前で言う気がしない。そういうわけで順番が回ってきたらニヤニヤしてあることないこと嘘で嘘を塗り固めるスキャンダラスな人生。

娘が中学生にもなると、付属校ということもあり、同じ学校に幼稚園からの長いお付き合いのご家族も多い。子育ての過程ではいろいろな事がある。幸い子ども同士がも揉めたことはないけれど、クラスやクラブの人間関係、学校や塾の成績や進路問題、山あり谷あり、その都度に相談したりされたり助け合ってきた。

秋、トラブルの中心人物としてひとりが学校を去った。深刻なものだった。我が子には関係ないと切って捨てることなんてできないほど考えさせられる種類のものだった。きっとこれが知り合い家族の問題でなければ、相当憤っていたと思う。そして中心人物の退場でとりあえず解決したことを喜び安心していた思う。

許せない気持ちと、許したい気持ち。
悪気があったわけじゃないと庇いたい衝動。
被害者に加害者の悪気の有無は関係ないという思い。

子どもから伝え聞く話以外になにもわからず、勿論当事者に聞くこともできず、ただただ数週間をああでもないこうでもないと考えて過ごしていた。自分の中の正義の脆さや信念の頼りなさに辟易しながら、そのくせ恐ろしいほどに都合よく物事が無難な場所に着地することを祈っていた。

幼いころから知る、当事者の今後が心配だったし、母である友人の心境を思うと胸が痛んだ。そして同時に自分が被害者の気持ちを無視して加害者側に肩入れしていることに申し訳なく、立場をはっきりできない自分に吐き気がした。

最近になってようやく集まる機会があり、みんなで心中を吐露。今はまだ詳しく話せる心境じゃないけれど、許されるならみんなとこれからも会いたいし、いつか息子がもっと良き人間になったら会ってあげてほしい、と友人が泣いた。みんなも泣いた。私も泣いた。

曖昧な性格のくせに白黒つけるのが好きで、言葉で自分を鼓舞するように威勢のいいことを言いがちな私は、その時にとてもとても深く反省した。
あれはいい、これはだめ、すき、きらい、ゆるす、ゆるせない、それは決められない。決めて当然だと思ってきたけれど、決められない時もあるだと。きっと今まで決めるつけることで誰かを傷つけてきたのだろう。とてもエゴイスティックだ。

許す、許さないではなく、友人が子の先行きを不安に思うように、私も彼の未来を不安に思うし、友人が子に希望を見出すように、私も彼に期待する。それははもうそうするしかできない。曖昧さを抱えたまま、寄り添っていこうと思う。そして今までの自分の、態度を決めかねる人々への冷笑的な態度を徹底的に反省しようと。(反省すべきことあった!)

血のつながった家族以上に濃いと思う、自分たちで選んで結びついた家族のような縁を繋いでいく過程で、嬉しいことも悲しいこともある、きっとこれからもある。死ぬ間際に、それらすべてが混ざり合って煮込まれて美味しいスープになるくらいであってほしい。そのために自分がついつい掲げがちなダブルスタンダードを戒めながら、弱さを見つめながら、生きていくしかないんだよね、と。この年齢になって駄目なところはもう治らないと開き直って好き勝手生きているけれど、それでも大切な人や事柄が私を諌めてくれている。最終的になにも改善せずに死んでいくかもしれないけれど、聞いて、受け入れて、考えて、改めようと努力はしようと思う。(来年の抱負も発見!)そう思わせてくれるあらゆることにありがとうありがとう。

今年一番悩んだことを文章にしたら少し楽になった気がする。長々と愚痴めいたことを失礼しました。

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自分のアトリビュート(持物)は何か?と言う話をしていた。アトリビュートとは描かれている人物が誰なのかを明らかにする為のアイテムのことで、聖ペテロであれば雄鶏や鍵、洗礼者ヨハネは十字架の形をした杖、白馬に跨るのは聖ゲオルギス、ポセイドンであれば三又の鉾、薬師如来は薬壺、白象に乗るのは普賢菩薩といった具合。また、棕櫚の葉は殉教者を示し、死因と共に描かれることでその人の最期の様子を表していることが多い。

ドミニコ会修道士の聖ペテロは頭に刺さった鉈

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聖ルシアはお盆に目玉

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聖アガタはお盆に乳房

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おいおい。物騒が過ぎる。

自分は絵画に描かれるようなアイコニックな存在ではないけれど、そこらへんまだ未知数、急に覚醒とかして地球の危機を救うかもしれないし、麒麟に王に選ばれるかもしれない、ナカ麟がスタンバイしてる可能性は否定できない。そう人生はチョコレートの箱、開けてみるまで中身はわからない。うんまあもう開いてるし残りも少ないんだけど。

で、自分では自分のアトリビュートは本ではないかと思ったりもするけども、そこまでの読書量ではないともわかっていて。じゃあ実際のところどうよ?って考えると、悲しいかなウタマロクリーナー。

Elles se rendent pas compte

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最近、というか11月に入ってからは三叉神経痛の発作と戦う日々。戦うといっても完全に負け試合。
一回の持続時間は短いけれど、頬の内側を火であぶられるような激痛が頻繁に起きると、なんかもう世を呪うというかやり場のない怒りに襲われる感じで、この一か月、脳内であの人この人いろいろな人を山中に埋めた。命乞いさせた後に重機で生き埋めにするスタイル。
過去のことは水に流す、という言葉があるけれど、それは主にやった側の話で嫌なことをされた側は水に流すどころか事あるごとに思い出して脳内で重機で地中に埋めたりする。私も誰かに嫌な思いをさせて、誰かの脳内で埋められているかもしれない。それはもう自分が悪いから仕方がない。でもできれば生き埋めはやめてほしい気持ち。

私にしては、という前置きつきで平日はお弁当作りを頑張っている。前日にいろいろ下拵えしたり、彩を考えてみたり、いろいろと面倒なことが多い。それでも真面目に取り組んでいるのには少し訳がある。

私はお弁当が苦手だ。偏食で変なこだわりが強いので小箱に詰められて味や匂いの移ったおかずやごはんが食べにくい。そこまでして何かを食べなくてもいいと思ってしまう。

でも、ある日、家族が、お昼ご飯を食べるのが楽しみだとか、お昼に美味しいものを食べると幸せだとか、そう思っていることを知って、恥ずかしながら今更に知って、自分との価値観の違いに驚くとともに、なんて可愛い人たちなんだろうと感動してしまい、じゃあ私の空いた時間をこの人たちの幸せのために使ってみようかと思った次第。だから自分なりに手間暇かけてお弁当を作っているけれど、そこに愛情がつまっているかと聞かれるとちょっと困ってしまう。愛というよりも家族のためになにかをしているという自己満足だから。

お弁当作りの最中にいない人は、お弁当にいろいろな思いを押し付けがちで、その豪華さに愛情を見たり、質素さに怠惰を見たり、好き放題する。娘の幼稚園の園長は、園児のお弁当を見て回って冷凍食品が多かったり簡素なものだと親を注意してきた。当時は子どもを人質に取られているようなものだったので何も言えなかったけれど、まあ最低最悪な人種だった。小学校の先生は「お弁当作れないときはコンビニ弁当でいいです。でも子どもが人目を気にするのでお弁当箱に詰め替えてください。買ってきて詰め替えるのも愛情です。」と話していて、その場にいたすべての保護者の心を癒してくれた。

お弁当はお弁当でしかなく、それは生活の中のごく一部の切り取りでしかない。私はたまたま今はそこを頑張っているけれどいつまで続くかわからない。今でも時々めんどうで作らない日もある。そんなもんです。明日のことはわからない。とりあえず何がか言いたいのかというと、作れる人もいれば作れない人もいる。でもそこで他人が愛情を計るべきではないし、保護者が責められるものでもないと。疲れた時はお金わたそ!無理な学校はパンとバナナでいいよ!長いお勤めになるから無理せず気楽にやっていこ!大丈夫!園長はもう山中に埋めといたから。

なんて書きつつも、「美味しかったよ」と言われて空のお弁当箱を返されるとき、Twitterで声をかけていただくときはやっぱりすごく嬉しくて、にんまりしちゃうんだけども。

J’ai des frissons

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寒い。季節に喧嘩を売られている。

男女ともに薄着で寒そうにしているしている人が好きで、その迂闊さと凍える首筋と冷えた指先に「もののあはれ」があると勝手に思っているので、恋やなにかを求めて歩く人は、ダウンなんぞ着てぬくぬくせずに薄物を風になびかせ少し身を縮めている方が良いような気がする。知らんけど。

私はもうその土俵に立っていない、というか土俵が視界に入らないところまで来ているので、若者の無防備な薄着に目を細めつつも、さながら氷上のワカサギ釣り人のようないでたち。そう、冷えが確実に命を蝕むお年頃だ。

三度の飯より風呂が好きなので付随的に入浴剤にも興味がある。昔は安価なものから若干高級なものまで本当にいろいろと使っていた。アロマテラピーアソシエツのバスオイルなどは香りも極上で贅沢な気分を楽しめたし、粗塩と日本酒の組み合わせでは発汗量に喜んだりした。↓過去に書いた日記を見るときき湯とクナイプも好きだったようだ。

「最近は、きき湯ファインヒート一択。ちょっともう食べたいくらい好き。この温もり、この筋肉のほぐれ、代えがたし。そうよ!アロマが私に何をしてくれったていうのよ!一時気分が良くなるだけだし!それにひきかえきき湯ときたらもう堅実!実家に仕送りする系の長男!ゆくゆくは実家の土地に家立てて敷地内同居するタイプ!養子にしたい!うそ!そんな男いや!というくらい好き。」

「クナイプ バスソルト グーテナハト ホップ&バレリアンの香りも良い。とにかく眠い。入るそばから眠くなる。あまりに香りが好きすぎて同シリーズのボディクリームも買ってみたけれど、塗ってしばらくするとオジサンの香り(昔からある男性整髪料のような仁丹のような)になる、気がする。」

きき湯は今でも時々使うけれど、クナイプのグーテナハトは気のせいかもしれないけど香料と着色料が変わった気がしてすっかり使わなくなった。

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今はエプソムソルトが一番好き。ぬるま湯でもしっかり発汗するし風呂上がりに冷えない。無臭なので香りは自分で好きなオイルを使えるのも良い。割安感に惹かれていつもアマゾンで10㎏パックを買うけれど、最初に小分けにしないと後々カナヅチで叩き割る重労働が待っているし、分けたら分けたで非合法感がすごいので、誘惑に負けずに次回こそは2kgで買おうと、いつもその時は思う。

 

 

 

make a slip of the tongue

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オクシモロンのカレー食べたいな、とワンクッション置いてからしか思い出せないコロナウイルス新変異型オミクロン株。もはや思いだせていないに等しい。というか覚えてない。感染力が強くワクチンの効果も不透明ということで、我が家は早々に年末の帰省を断念。そもそも暮れの忙しい時期に帰省したくないという気持ち、あるかなしかで言えばありすぎる。寒いし、友達も親戚もみんな忙しそうだし、お義母さん怖いし。お義母さん怖いし。

日頃ツイッターランドで遊んでいる者として。何がきっかけだったかは忘れたけれど「親に愛されて育った子は~だけど、そうでなかった子は~でない」という呟きを目にした。莫大なフォロワーとリツイート数を誇り、どこか人生の識者めいた立ち位置をとる人による発言は、本人の望む望まざるに関わらず人心を縛る呪(しゅ)となりえてしまう。だから、その呟きを見た時に、どうか、親からの愛情不足を自覚して、それに心を痛めている若き人がこれ以上悲しい思いをしませんように、その言葉に囚われてしまいませんようにと、強く思った。自分の努力ではどうしようもないことを傍から見てしたり顔で意見してくる人には、心の中で(いや別に口に出しても良い)魔法の呪文「うるせえ!あっち行ってろ!」を唱えればいいし、そういう無神経な人の頭はおばちゃんが便所スリッパでスパコーンてたたいて回ってあげるから安心して。

my poor scribblings

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私はバスが苦手だ。バスというか公共交通機関のすべてが苦手だ。乗り物酔いしやすいせいかもしれないし、閉所や人混みが怖いというメンタル的な部分があるかもしれない。自分がどれほど希望しても駅と駅の間など決して降りられない時間があるというのがプレッシャーになって動悸がする。バスに乗るときはいつも「どうか今日こそは最後までバスに乗っていられますように」と祈るような気持ちで座席に座り、自分を励ますために心の中で「おおスザンナ」を歌う。

わたしはアラバマから バンジョー肩に
はるかなルイジアナまで 行くのです
どしゃぶりかと思えば かんかん照りで
死ぬほど辛い旅を しています
おおスザンナ 泣かないでね
素敵なバンジョーの歌 思い出して

よくわからないけれど、たぶん暑い日も寒い日も荷馬車にたえず揺られながらスザンナは旅をしているのだろう。そしてその道中は死ぬほど辛いらしい。それになんとアラバマからルイジアナ。地理関係まったく知らないけど。私も多少は辛いけれど空調も効いているしバンジョーを肩に乗せてもいないしスザンヌの道中からすれば天と地のほどの差があろうことはわかる。スザンナはたぶんとてもいい子だ。「泣かないでね」といわれるということは泣かずに頑張っているのだ。それに比べて私はどうだ、スザンナを見習うべきではなかろうか。頑張れ私、負けるな私。

「おおスザンナ」を繰り返し歌う。でも最後の「素敵なバンジョーの歌おもいだして」の部分の歌詞を思い出せないうえに「味わいも歯ごたえもとってもよろし」とローカルCMの替え歌の方で歌ってしまうのは本当に申し訳ない気持ちになる。ごめんスザンナ。

同じように苦手な炎天下の移動では小公女セーラの主題歌を歌いながら歩く。「遠い道を歩くとき歌を歌えば近い 道端の花摘みながら」途中までは前向きでいられるけれど最終的には「弱虫は庭に咲くヒマワリに笑われる」という歌詞でちょっと落ち込んでしまう。ヒマワリにまで笑われる、そんな自分に心当たりがありすぎる。

そうだね、わかる。たぶん外出が向いてない。