浮かんだり沈んだり遊んだり籠もったり

Don’t trust over40

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年齢を重ねて生きやすくなったと嘯いた翌日、毛足の長い濃紺の絨毯をひいたリビングの床に置いた黒のファーバッグが同化してしまい探すのに手探りで20分という年は取りたくないものだ案件が発生し天を仰ぐ。神は私が調子づくことを決してお許しにならない。

友人と食事するために赴いた青山。行き交う人々が素晴らしくお洒落で日頃世田谷の僻地で暮らす私の目もあや。色デザイン素材に調和がとれたコーディネイトは言うまでもなく美しい姿勢と速足が着こなしに仕事着感を与えていて見事な着こなし。

青山あたりに住んで道行く人々を眺める毎日が送れたら幸せだろうなと思う。が、老後に一人暮らしをするなら六本木か心斎橋で夜半の喧騒や揉め事を窓から眺めるのも楽しかろうと、今はまだそちらに軍配が上がっている。

青山に向かう表参道駅構内、妙な息苦しさを覚えてふと立ち止まる。13年前、一人娘の出産の際にB5出口をいつも使っていたのだ。愛育病院へはそこからタクシーで通った。当時、まあまあ祝福され幸せな妊娠だったのにも関わらず私はひどく困惑していた。毎日の毎時間毎秒を困ったなあと思って過ごしていた。親になる実感もなく、妻としてより地に足つける気もわかず、ただ大きくなるお腹に怯えていたような気もする。結局は無事に出産して、今は四苦八苦しながら子育てをして、そこにまあまあ幸福感じちゃったりもしているのだけれども。未知への恐怖、はたまた生命への畏怖、そんなものがあったのかもしれない。くわばらくわばら。

表参道駅で急に当時の不安が思い起こされて動揺したけれど、いいんだよ(夜回り先生)(アイツ今何してんの?)いろいろと鈍麻してくる今日この頃、しばし揺らぎの中で自分の心の柔らかく弱い場所を眺めて別に悪いことでもないよと自分で慰めて手当てする時間も必要なのかもしれないし。カチコチに凍えて固まった過去の小さな憂鬱は時々取り出して飴玉みたいに舐めてもいいけど、月夜の小川にそっと沈めてもいいけど、どうしたっていいのだけど、それはもう切れた電池のようにもうなんの熱も産まないのだ。あらためて悲しんだり傷ついたり必要なんてないの、なんていうのは単なるひとりごと。

食後、時間が余ったので久々にギャルソンに行こうと思ったけど辿り着いたのはアニエスだった。おしい。